グリンゴ・グランゴの生涯でたった一度の恋

 今までそこそこのパソコンを使っていた所為か、ノートを使ってネットに繋ぐとどうにも遅く感じる。
 Let'sクンだから、そう悪い性能でもないと思うのだが、まぁ仕方ない。

 さて最近は人に勧められて司馬遼太郎の「龍馬がゆく」を読んでいる。
 隆慶一郎や最近の軽い時代物ならともかく、この辺りの歴史物というのはどうにも堅苦しくって読む気にならなかったのだが、いざ気を入れて目を通してみれば最初こそ壁が立ちふさがっているものの、本の中頃からはなるほど読めるようになっている。


 こういう歴史物というのは文学と同じでエンタメではないのだから、読み難いのは仕方がないと言えば仕方がない。
 本を読むということを、自分の為になるためにするような人にはこのような物がウケるのだろう。
 その点、隆慶一郎北方謙三などはそれまでの諸説からすれば幾分ぶっ飛んだ内容の物を書くが、やたら面白い。とはいえ、先に言った為になる本が好きな方には北方謙三の名を出すと笑われてしまうかもしれない。
 以前、北方三国志を人に貸したことがあって、次の日にさっぱり分からんと言われて返されたのが私の記憶に生々しく残っている。
 この北方三国志は私が再び本を取るきっかけになったような本で、全十三冊を飛ぶように読んだものだが、吉川英治三国志は文庫本一冊も読めたことがない。
 この違いは何だろうか。
 時代、ジャンル、作家の経歴や性格の違いもあるだろうか。
 名文とは、何時の時代に書かれたものでも、堅苦しい目的の為に書かれたものでも、不思議と美しくユーモアのあるものである、というのが私の持論である。
 
 百年後、諸氏の本棚には吉川英治三国志が残っているだろうか、北方謙三三国志が残っているだろうか。それとも新しい書き手が現れてどちらも図書館の片隅に(あるいは電子の海の底に)追いやられてしまうのだろうか。
 

 話は変わるが、今週末の十三日に開かれるコミティアに遊びに行こうと思う。
 忘れないよう、ここに書いておく。

 なお、今日の文章がやたら暗く上から目線でやや爺クサイのは司馬遼太郎の文章を読んだからだと考えられる。
 すぐ影響されるタチなのだ。

 明日明後日には、きっと解放されることだろう。